今日は大学時代の友人のブログを読んだ。大学を卒業して北海道の島に行った奴だ。今何をやっているのかブログを読んだだけではよく分からないけど、きっと何かをやっているんだろう。
大学時代の大半をあいつと過ごした。哲学や社会学への造詣が深く、親しみやすさがあって、人を惹きつけるやつだ。瞬発力はないが、よく考えて自分の言葉を選ぶ。自分にないものを持っている。あいつがこれからどんなことをするのか楽しみでたまらない。
一通りできたら満足してしまって、それ以降「どうしたらもっと良くなるかな」とか、自前の工夫をしない。まあ料理とかゲームとかに心が向かないから別にいい、と無理せず考えてもいいが、楽しみ方を知りたいなあというメタ的な気持ちがあるのも確かである。
自分なりに体を動かしたり感じてみたりして、その上で色々考えてみるために島に来たのだ。
まちづくりに限りませんが、私たちは課題や問題に直面すると、すぐに「対策」を考えようとします。心理学的に言えば、問題や課題を目の前にすると、自分の心の中に不安が生まれるので、その不安を解消するために、「とりあえずできそうなこと」を考え、自分の不安をなくそうとするのでしょう。これが「問題」だ、だからこの「対策」をとる、というような「出来事→出来事」レベルの反応が非常に多いのです。「スーパーの撤退」が問題だ、「空き家の増加」が問題だ、「今年の出生数がまた減ったこと」が問題だ、「だから、どうしよう、こうしよう」という対策づくりに走ります。また、まちの人や域外の人々を対象に、「まちづくりのアイディアをください」というアイディア・コンテストを行うこともよくあります。様々な可能性を考えることや、それがまちづくりの刺激になるという側面はもちろん大事なことですが、やはり「出来事→出来事」レベルのアイディアになってしまうことも少なくないようです。
「目の前の問題」は、「目の前の症状」であることが多いのです。スーパーの撤退も空家の増加も出生数の減少も、それ自体が「問題」なのではなく、より根本的な問題の「症状」ではないでしょうか? そして、スーパーの撤退や空家の増加や出生数の減少という”問題状況”を、どういう状態にもっていきたいのでしょうか?スーパーが残ればよいのでしょうか? 空き家はどういう状態になればいいのでしょうか? 出生数やまちの人口はどうあれば、持続可能で幸せなまちになるのでしょうか?(…)
すぐに問題の解決策を考えたくなる、対策に走りたくなる衝動を少し我慢して、まずは、全体像をじっくりと考える必要があります。考えることは二つです。「そもそもどういう姿にしたいのか」、そして「なぜ、今そうなっていないのか、その構造がどうなっているからか」です。
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