最近、恋人に「どこに行きたいか」と聞かれた時に何も出てこないという現象に悩んでいる。行きたいところが無いことを正直に話すと、残念な顔をされるし、なんとか捻り出そうとすると頭に靄がかかったような気分になる。自分がつまらない人間だという不安が募る。
もちろん気になっているカフェやもう一度通いたい店などならある。だけど例えば、桜が綺麗だから見に行きたいとか、街並みや景色を観光したいとか、遊園地に行って遊びたいとか、そういうイベントとして行きたいところが無いのだ。車にしろ電車にしろ長時間移動するのが面倒だし、せっかくの1日がそれだけになってしまうし、心も体もなんだか疲れてしまう。
しかし、行きたいところはなくはない。休みがたっぷりあるなら出かけたい場所はたくさんある。一人で出かけるのもいいし、仲間と旅をするのもいい。沖縄とか適当な南の島にスキューバダイビングのライセンスを取りに行きたいし、北海道の離島で農業をやってる友達に会いに行きたい。京都の友人たちに会いに行きたい。近いところで言えば東急ハンズ名古屋展の男の書斎コーナーとトヨタ産業技術記念館に行きたい。
もっと時間があるなら、夏のモンゴルに行って馬で草原を駆け、夜の星を眺めたい。モンゴルに限らず、海外を旅したい。アジアや中東の街並みを見て回り、その空気をゆっくりと味わいたい。ラクダや馬、電車、車を使って少しずつ、着実に次の街へ向かう。行く先々の食べ物を食べる。その土地の祭りに参加する。道中でトラブルはもちろんあるだろうけど、それも旅の楽しみだ。去年仲間と行った北インドの旅は、1週間だったが、異文化の中で生きている感じがとても充実していた。ヴァラナシーの祭りは、街の大半の住民が集まる。音楽と共に若者が踊る。日本にはないやりとりがあった。空気は汚いし人も多い。しつこい客引きも劣悪な衛生環境もドン引きの連続だった。けっして楽しいとは言えなかったが、確かな満足感があった。また行きたいとも思う。
本当に自分が行きたいのは、「楽しい」がコンセプトのエンターテイメントではなくて、泥臭く向き合う充実感の旅なのだ。充実感に、エンターテイメントが提供してくれる楽しいという感覚は必要ないのだ。「楽しい」イベントは、楽しい感情を強要されているような気がして疲れてしまう。別に勝手に疲れなくても良いじゃない、と思う反面、自分の中の「楽しい」という感情が結構鈍いものだからしんどいのかな、ともメタ的に思う。勉強が分からないのに机に座り続けるようなものだ。自分は勉強に苦しんだ経験が無いから分からなかったが、大半の人はそのしんどさを受け入れて机に座り続けていたのかと思うと、その果てしない忍耐と努力に尊敬の念を抱いてしまう。
「楽しい」という感情が薄いのではないか、というのが自分の悩みだった。みんなが楽しいと思うことがあまり楽しくない。その代わりに楽しいと思うことがあるのなら話は簡単だったが、特にあるわけでもなかった。何かを習得すること、何かを作ることは楽しいが、夢中になれるほどでもないのがつらかった。何が辛いって、楽しむ方が努力よりもコストが低く、また遠くまで行けることを知っていたからだ。夢中な奴には勝てないよな。自分は色んなことに興味があるが、どれか一つに心奪われるわけじゃない雑食主義だ。雑食主義であれ。でも一つの扉から色んなものが取り出せることを自分は知っている。全てが繋がっていることに気づく、それがどれだけ豊かか、苦しいほどに知っている。それに、「楽しい」という感情は人生のアンテナとなり、指針にもなる。そのセンサーが頼りないことはたまらなく不安だった。
でも、楽しいと思うことはあんまり無いけど、やりたいことは沢山あるのだ。それも不安だった。心じゃなくて頭で興味を持とうとしすぎなんじゃないか。部活だって受験勉強だって、学生時代に取り組んだ色々だって、結局積み上げては崩してばっかりじゃないか。でも、苦しかった部活動も最後の一年は楽しかった。苦しかった色んなものが繋がった。その時は楽しく充実感があった。夢中になれない自分でも、続けていれば一つの扉から色んなものを取り出せる。
やっている最中は別に楽しいわけじゃないけど、なんなら苦しい時も多いけど、振り返るとやって良かったと思う。あちこちに寄り道するし、夢中になりきれるわけじゃないけど、悩みながら少しずつ進んできた、その充実感は確かにある。楽しみながら積み上げている人を見て、何かに夢中になれない自分はこれまで一体何をやってきたんだ、という悔しさと同時に、それでも自分は進んできた、という充実感が両面から自分を挟んでいる。それは苦しみでもあり楽しみでもある。
濱口竜介監督のカンヌ受賞作品「ドライブ・マイ・カー」を映画館で見て、楽しくはない人生の良さだな、という感想をかつて抱いた。一緒に見た友人と帰りながら、映画のひとつひとつを反芻した。50代後半から随筆家として活動を始め、美しく上品な文章でこれまでの過去を回想する須賀敦子の「遠い朝の本たち」の中で、「決意したり渇望したり嫉妬したりして生きることこそ、より人間らしく生きることではないか」というような独白があった。そういうものに自分は支えられている。行きたいところは出てこないが、これからもそういうものに自分は支えられていくだろう。
ほんとうに人生に参加したのは、クレールを守りたいと思って彼女と結婚し、妻から手紙をもらいつづけるジャックに嫉妬し、彼が死んだあと、わけのわからない力に押されるようにして、抵抗運動にとびこんでいったジャンだ。彼こそ、より人間らしいやり方でクレールを愛したのではなかったか。あれから四十年、『人間のしるし』への、それが私の答えだった。
須賀敦子. 遠い朝の本たち (ちくま文庫) (pp.138-139). 筑摩書房.
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